歴史の深さを感じる遍路道

 多和地区には、四国八十八ヶ所の八十七番札所長尾寺から八十八番札所の大窪寺に至る、遍路道があります。

 長尾寺からさぬき市前山まで行くと、大窪寺へ向かう遍路道が複数に分かれます。

 1つ目が、県道3号志度山川線・国道377号線を通るコース、2つ目が、前山の「道の駅ながお」付近から相草東峠を抜けて多和地区に至る旧遍路道コース、3つ目が前山ダムの湖畔を通り、来栖(くるす)渓谷を抜け、長尾女体山を登っていく四国のみちコース、4つ目が、県道3号志度山川線から林道矢筈太郎兵衛線へ入り太郎兵衛館を通って四国のみちに合流するコースがあります。

 この4つのコースは、ほとんど山の中を通る道であり、1と2のコースは古くからの遍路道で、3と4は後から作られた道です。

 ちなみに、3と4は健脚コースとされ、標高700m級の阿讃山脈にある長尾女体山を越えて大窪寺に向かいます。

 多和地区内の中心を通る1と2の遍路道沿いには、遍路に関連する供養塔や丁石、遍路墓などがあり、遍路文化の深さを感じることができます。 

・先生墓

 前山地区から多和地区の相草に続く遍路道(花折遍路道)沿いに、先生墓があります。

 昔、紀州からこの地に遍路として来た眼医者さんが、どういうわけか多和地区の相草に住み、この地域の人たちの眼病を治していました。その後この眼医者がなくなり。地域の人たちがお墓を遍路道に建てておけば、故郷の紀州の人も通るだろうからと建てられたと言われています。

お供養さん(左)とオフナタサン(右)

 お供養さんとは、紀州の義染房という人が、1万5千人の遍路にお接待をしたという記念の供養塔です。また、オフナタサンとは、旅人を守る神様で、昔は多くのわらじを添えていたそうです。

・光明真言二百万遍供養塔

 光明真言二百遍とは、四国霊場巡拝団のように、多くの人が同時に光明真言を唱えると二百万遍の光明真言が唱えられたとされるもので、地域の講中によって建てられたものです。

・遍路墓(左)と指印が彫られた石(右)

 多和地区内の遍路道沿いには、遍路墓があります。特に、大窪寺周辺には遍路墓が多く、大窪寺の鐘の音が聞こえる場所に墓を建てたと言われています。 

 長い遍路の旅に、精根尽き果てて力尽きていったお遍路さんが、多かったことを物語っています。

 また、大窪寺近くには、大窪寺方向を指し示す指印が彫られた石があります。

<参考文献>

 長尾寺の「結願のみち」案内板

 「香川県史第十四巻資料編民俗」 昭和61年 香川県

丁数が刻まれた石仏「丁石」

 香川県さぬき市多和地区には、四国八十八ヶ所八十八番札所の大窪寺があり、八十七番札所長尾寺から前山ダムを通り、大窪寺まで続く遍路道があります。多和地区内に入ると、遍路道沿いに、一から七十までの丁石(ちょうせき)が設置されています。 

 丁石とは、一般的に「町石」とも書き、「ちょうせき」「しょういし」とも呼ばれています。「丁」とは、日本固有の距離の単位で、一丁はメートル法に換算すると約109mで、目的地までの道筋に距離の目安として、丁数が減るように設置されています。

 また、丁石の形は、全体が舟型で、中央には蓮華座の上に地蔵菩薩立像が半肉彫りされ、上部や左右に丁数や施主名、住所などが彫られています。地蔵菩薩は「苦しむ人々を救済する慈悲にみちた仏」で、道や峠に立って人々の安全を祈願すると言われています。

・多和地区にある丁石

 多和地区にある丁石は、長尾寺から大窪寺進んで行くと丁数が減っていくように設置されています。始まりは、さぬき市前山地区と多和地区の境にある花折峠(はなおれとおげ)で、そこには70丁の丁石が設置され、大窪寺に向い丁数が減っていきます。また、多和地区のお隣の東かがわ市五名(ごみょう)地区でも、徳島県との県境に38丁の丁石が設置され、大窪寺に向い丁数が減っていくように設置されています。

 現在多和地区にある丁石は、江戸時代中期(宝暦・明和・天明)頃に作られたもので、一部丁数はないものもありますが、相草から大窪寺まで続く遍路道沿いに、50体ほど現存されています。

・多和相草から大窪寺までの遍路道沿いにある丁石(70丁~1丁)

<参考文献>

「さぬき市の文化財」 2012年 さぬき市文化財保護協会